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幻のランドセルを追って

幻のランドセルを追って

井戸尻の民俗資料館では現在「100年後に残したいモノ・こと・話」と題して、皆さんから寄せられた想いが展示されています。


幻のランドセルを追って

3月31日まで展示されていますので、のぞいてみていただけたら嬉しいです。
かなり寒いので、暖かくしてお出かけください。(特に膝から下がしんしんと冷えます💦)

幻のランドセルを追って

下駄スケート
これを履いて滑るって、凄いですね!
かじかんだ手で紐を結ぶのはさぞ大変だったでしょう。
わが子たちも境小学校で田んぼのスケート場を体験しました。
紐が縛れないと泣いていましたが、この地域でしか体験できない良い思い出になったと思います。


幻のランドセルを追って

おせんべいの型
令和3年に役場の倉庫で発見された「富士見煎餅」の型。
これは明治のアララギ派歌人たちと富士見をつなぐととされている戦前の銘菓の型なのか!?
続きは展示をご覧ください。

幻のランドセルを追って

“僕らの田舎タクシーは行く”
~浜先生と5年1組の男の子たち at 境小学校 in1953~- :平出紘子さん
映画になりそうなすっごく良いお話です。
ほっこりしますよ❤

展示されているものは、どれもその方が大切になさっている富士見町の宝。
展示品を見ているうちに、皆さんの中でも昔の大切な宝が思い出されるかもしれませんね。

 

そして、これが問題の「桑の紙のランドセル」です。

幻のランドセルを追って

幻のランドセルを追って

 

桑の紙のランドセル:武藤俊昭さん(池袋)

自分たちが小学生だったころ桑で作られたランドセルが配給されました。それは、桑んぼ(桑の木の棒)を鉄鍋で煮て、はいだ皮をすいて作った紙を、かんじより(観世縒り*)にしたものを織り、布のようにしてランドセルにしたもので、雨が降るとふにやふにゃになりました。弁当箱から汁がもれて、底に穴があいたこともありました。戦後で、本当に物のない時代でした。戦争だけはやってはいけないと、そう思います。

 

この話は、武藤俊昭さんからお聞きしたことがありました。
お弁当の汁でランドセルの底に穴があいてしまい点数の悪いテストを落としたのに気が付かず、それを拾った姉に「はずかしい」と泣かれたというお話でした。
ドラマの一場面のように目に浮かびます。
とても興味があり、ご近所で知っていそうな人に聞いてみたのですが、知っている人はいませんでした。武藤さんの小学校の同級生にも聞いてみたのですが知らなかったので、やはりみんなが使っていたというものではなさそうです。
でも、見てみたいです! 桑の紙のランドセル!!!

初代館長の故武藤雄六さんに、以前、民俗資料館に残る資料を見ながらお話を伺いました。
この地域は養蚕が盛んで餌となる葉を取った後の桑の木がたくさん残りました。
その木を大釜で煮て、繊維を取ったそうです。先人たちは本当になんにも無駄にしなかったんですね。
その中で、繊維から紙にまでしたのが富士見町の中でも葛窪区に3軒だけあったそうです。
おじい様が桑の紙の工場をやっていたという加々見保樹さんに、何かご存じではないかと聞いてみました。
その結果、おじい様の加々見保さんの自分史を見つけてくださいました。
加々見保さんは境村の村長もされていたという事で、びっくりするような貴重なお話がたくさん残されています。ご本人を存じ上げませんが、地域の方が残された体験談となると、ぐっと身近な話として興味深く拝見しました。
その中に「和紙製造業の失敗 」と題して桑の紙の記述がありました
以下、自分史より抜粋させていただきます。

 

境村の書記をしていた当時、冬の間は寒さが厳しく、家の中に安閑としているので、何かよい副業はないかと考えていた。折りしも、加々見勘五郎君が、山梨県北巨摩郡の三吹の部落などで、桑棒の皮を利用して、和紙をすいているという話をされた。平出親君、加々見勘五郎君、平出義富君と話し、和紙の産地である山梨県の市川町を視察することにした。

 

その結果、

スダレ、乾燥機、ピーター大釜などの備品を撤え、工場に併せて店舗なども竣工し、職人は、市川町から雇い入れ開業し、初年は加々見勘五郎君が経営にあたつた。
しかし、製品は、一日当たり障子紙に換算して200帖余りも生産するのに対して、販売が思うようにいかず、製品がストックするばかりであった。

 

思うようには売れなかったようです。
その後も継続すればするほど製品のストックが増えるばかりという状況に陥り、みなさんで相談の上、閉業なさったそうです。

加々見さんが境村の書記をなさっていたのは、大正7年から12年。
書記の給料が月7円。村長の給料も10円で助役が9円だったというのです。
(村長の給料が安いのは、名誉職の意味合いが強く現在とはおもむきが全く違っていたそうです。)
加々見さんが書記に就職した7月から諸物価が上昇。当時、米一升30銭だった価格が50銭に跳ね上がったということ。
桑の紙製造に挑戦されたのは、そんな時代背景があっようです。
加々見さんは自分史で、次のように結ばれています。

 

「今にして考えれば、一回の視察や調査で開業したことや、副業でなく企業化したこと、販売先などの研究もしないで、はじめたことは、いかにも浅はかであった。いかにも幼稚であったことを、つくづく感じるが、これが人生への第一歩の失敗であった。」

 

この紙の販路は主に諏訪郡内と北巨摩郡の一部だったそうです。
俊昭さんによると桑の紙を「かんじより(観世縒り*)にしたものを織り、布のようにしてランドセルにした」
とあるのですが、どこで作っていたのかまではわかりませんでした。

民俗資料館には、前記の桑の紙を製造するためのすだれやピーター大釜などが加々見さんから寄贈されています。
機会があったらのぞいてきてくださいね。

幻のランドセルを追って
桑の紙を製造するためのすだれ


幻のランドセルを追って
民俗資料館の玄関の裏側にある大釜
人が何人も入れそうな大釜です。

 

話は変わります。
2022年5月19日~9月11日まで
岡谷市の蚕糸博物館では桑に関する企画展をやっていました。

幻のランドセルを追って

友人が、「蚕糸博物館でランドセルを見たことがある」というので、ひょっとするとそれが桑の紙のランドセルではないかと、二人で出かけていきました。

幻のランドセルを追って

幻のランドセルを追って

ランドセルはあったのですが、絹糸をつくるときに出たくずで作ったものでした。
絹糸のくずの部分をフェルトのようにして革製品の代用として使っていたそうです。
絹で作ったランドセルなんて、今考えるとすごいですね。

蚕糸博物館の学芸員の方なら何かご存じかと思いましたが、聞いたことがないそうです。
残念ながら、桑の紙で作ったランドセルにたどり着くことはできませんでした。

それにしても、先人たちから学ぶことは多いですね。
なんでも簡単に手に入り使い捨ての現代。
何も無駄にせずに頭を使って工夫して、支えあいながら暮らしていた人々。
先人たちが大切にしていたものを私たちはどこに置いてきてしまったのでしょうか・・・

もし、桑の紙のランドセルの話を知っている方がいらっしゃったら、ぜひぜひお話をお聞かせください。
ご連絡をお待ちしております。

(Written by エンジェル千代子)

ルバーブ生産組合や井戸尻応援団をはじめ、様々な団体で富士見町の活性化のために活動中