文化・景観

寒さと共にある暮らし

寒さと共にある暮らし

2021年の年末から22年2月にかけて、いつになく寒い日々になりました。
家のベランダの温度計がマイナス10度より下がる日が何日も続きました。

「寒いですねえ」「そうだねえ。だけど小さい頃はもっと寒かったなあ」「こんなもんじゃあなかったなあえ」
こんな会話を何人ものお年寄りとしたのも、今年の冬のことでした。

寒さと隣り合わせた暮らし、「凍る」を生かした暮らしがここにはあります。

 

眺める

 

至る所で、自然が作った氷のオブジェを楽しめます。

寒さと共にある暮らし
溢れ出した水が流れるままに凍った、氷の滝

 

寒さと共にある暮らし
閉じ込められた蓮

 

寒さと共にある暮らし
しぶきが作った草つらら

 

寒さと共にある暮らし
日々変化する氷紋、作品名「三角の連なり」(なぜ三角の模様に?)

 

寒さと共にある暮らし
大きく育ったつらら。 作品名「孤独」

 

食べる

 

低温の土地ならではの食べ物が地域にあります。
凍らせた食品や凍らせた後天日で乾燥させた食品。凝縮された旨味みをもち、しかも長期保存できる優れもの。寒さと天日の恵みを生かした地域の人たちの知恵の賜物です。

 

寒さと共にある暮らし

天寄せ

町の大きなスーパーで1年中売られています。左が牛乳寄せ。右は甘夏寄せ。

地区の寄り合いのごちそうに、必ずと言っていい程出てくる一品で、赤ルバーブや季節の果物はもちろん、甘辛く煮付けた薄切りのしいたけや、溶き卵やゆで卵が入ったものをいただいたこともあります。

シロップを固めるのは寒天。寒天はテングサを煮詰め、ところてん状にしたものを、凍らせた後、天日で乾燥させます。

冬寒くて晴天率の高い諏訪地域は寒天づくりの最適地で、富士見では寒天製造が嘉永4年(1851年)に栗生で始まったそうです。寒天製造業は天屋と呼ばれ、明治初期に3軒、大正年間には13軒あったそうです。13軒をピークに徐々に少なくなり、昭和20年〜40年は8軒。平成中頃まで営業していた業者さんも他地域に移り、今、町に天屋は1軒もなくなってしまいました。

でも、食文化は残っています。昔ながらの天寄せはもちろん、スイーツにしたりスープにしたり、新しい感覚で取り入れながら、寒天の食文化はずっと残っていくでしょう。

 

寒さと共にある暮らし

寒さと共にある暮らし

これは凍み大根

マーケットの生産者コーナーで見つけました。標示に寄ると、大根を切り、一旦茹でた後、凍結、溶解を繰り返しながら、自然乾燥させたものだそうです。

水で戻した後、油揚げやきのこ類と一緒に煮付けていただきました。濃厚でした!



寒さと共にある暮らし

凍豆腐(しみどうふ)

豆腐を凍らせ、吊るして天日で乾燥させたもの。かつては、自分の家で作った人も多かったそうです。
冷凍後乾燥させた豆腐は長期保存できる便利な食べ物です。

 

寒さと共にある暮らし

寒さと共にある暮らし

富士見商店街にある豆腐店、両国屋さんの凍豆腐(しみどうふ)。

両国屋さんの凍豆腐は、凍ったままのお豆腐で、冷凍庫がどの家にもある現代の生活に合わせた加工食品です。

以前から知ってはいたのですが、乾燥したものとそう変わらないだろうと思い、購入することはありませんでした。でも、この機に食べみることにし、買った時アドバイスしていただいた通りに、家で調理しました。

弾力があるのに、スポンジを噛んでいるようなゴワゴワ感がなく、なめらかです。凝縮された豆腐の味がします。それに出汁がしみ込んで、新しい味わいでした。

豆腐店の店主、石垣さんに、凍豆腐に絞ってお話を伺いました。

凍らせた後、乾燥させる凍豆腐は地域で広く作られていて、多くの人は豆腐屋さんで豆腐を買い、それぞれの家で凍らせ、乾燥させていたそうです。

そんな中、乾燥させる手前の豆腐のおいしさに気づいたのが、豆腐の作り手の人たちで、現店主の先々代、石垣さんのおじいさんたちは、凍った豆腐を解凍させ、そのおいしさを自分たちで楽しんだり、親戚や近所の人にお裾分けしたりしていたのだそうです。

「食べたい」「譲って欲しい」という声を受け、10年程前、商品化したのが、先代。
現店主のお父さんは、改めて作り方の勉強をし、なかなか思い通りにならない中、豆の量や、使う木綿の目の細かさなどを工夫して、やっと今のような製品を完成させることができたそうです。

『豆腐を凍らせるために必要な温度はマイナス10度以下。その温度で豆腐は中まで一気に凍ります。
夕方、外に豆腐を並べ、翌朝、日が出る前に取り入れて、袋詰めをします。
戦後すぐの頃は、一晩で2回作ることもできたと聞いています。でも、去年、おととしは気温が高く、シーズンで3回がやっとでした。今シーズンはあの寒さで、凍豆腐の当たり年になりました。』

『この地域には、凍豆腐をお雑煮に入れる習慣があるんですよ。「間に合うように作って欲しい」と言われることもあって、正月に合わせて作るようにしています。
「なつかしいけれど、昔はこんなもんじゃあなかった。もっと固かった」というおじいちゃんもいるんです。もっと固くて、ガサガサしない凍豆腐を作りたいけど、なかなか狙った通りにいかなくて・・・』

創業者から三代目までの願いや試行錯誤が詰まっている両国屋さんの凍豆腐。お話を伺って、凍豆腐が今までとは違ったものになりました。

お客さんの声を受け止め、富士見の気候や風習に合わせて、もっとおいしいもの、もっといいものを作ろうとパワフルにお仕事をされている石垣さんご夫妻。こういうお店が地域にあることを本当に嬉しく、また力強く思います。

(ちなみに両国屋さんの凍豆腐以外の食品で言えば、友人たちは絹の生揚げや薫製豆腐が大好き。私は寄せ豆腐にハマっています。)

 

困る

 

あまりの寒さに、困ることも出てきます。

20220423_013.jpg
降った雪が凍り、長いこと解けずにいたため、土砂崩れを起こした小川の土手。

 

20220423_013.jpg
雪が降ってから2週間程した頃の日陰の道路。日中はグチャグチャ。
朝晩はツルツル。それが何週間も続きます。困ります。

 

20220423_013.jpg
役場横の急な坂道。道路の端に滑り止めの板が取り付けられていました。しかも側溝の金属の蓋の上。きっと何人も転んだ人がいたのでしょう。
転倒防止板をとりつけてくださったどなたか、“おらほー富士見”の会の代表から、代表の私費で「おらほー賞」が贈られるといううわさもちらほら。(聞こえてきません!)
賞はともかく、転倒防止板をとりつけてくださった方に、感謝!!

 

遊ぶ

 

氷は遊びにも取り入れられました。

20220423_013.jpg
ここは境地区にある小学校のスケート場だった田んぼ。
6年生の子たちが、「私たちが2年の時まで使った」「だけど、スケートをしたんじゃなくて、タイヤとか引っぱって氷の上で運動会をやった」「ぼくのお母さんが子どもの頃は、冬の体育はスケートだったって」と話してくれました。

富士見町の学校ではそれぞれ田んぼや校庭のリンクを持ち、氷の管理は主にPTAの人たちが行っていたそうです。「夕方になるとホースで水を播いて、段々に厚い氷にしたもんだ」「校庭は水持ちが悪くて大変だった」ということでした。

 

20220423_013.jpg
ここは富士見駅近くにあるカルチャーセンター。なんと、ここにも田んぼのスケートリンクがあったそうです。商店街の店主さんが、「親が商売で忙しくて構ってもらえなかったから、学校から帰ると毎日滑りに行って遊んでいた」と話してくださいました。

今、富士見町の田んぼや校庭のスケートリンクはすっかりなくなりました。
それに代わるのか代わらないのか、町の標高の高い所に2つのスキー場ができ、地元の人や観光客で賑わっています。
各学校では体育の時間に行っていた近場のリンクでのスケートに代わり、スキー教室が行われるようになっています。(隣の茅野市の本格的なスケートリンクを借り、スケート教室を続けている小学校もあるそうです。)

 

振り返り 伝える

 

町民センターの道を挟んだ隣に、「植松採氷所跡地」の石碑があるのをご存知でしょうか。かつて、富士見には大きな製氷の工場があり、作られた氷は、北は北海道、南は九州まで鉄道で運ばれていたそうです。

そして、なんと先の石垣さんの凍豆腐も木箱に入れられ、氷と一緒に出荷されていたのだそうです! いろいろなことが繋がります。
どんな製氷所だったのか、調べることができたら、いずれお伝えしたいと思います。

無くなったもの、引き継がれているもの、形を変えて続いているもの、新しく始まったもの・・・。 寒さとともにある暮らしは、姿を変えつつこれからも続きます。

  • 参考資料  「富士見町史 下巻」

 

(Written by 村上不二子)

 

富士見町の文化と景色を、様々な切り口で紹介しています。