我が家から歩いて5分もかからないところに、井戸尻考古館があります。井戸尻考古館とはどんな館なのでしょうか?
改めて、考古館のホームページを開いてみました。
井戸尻考古館は、八ケ岳山麓を舞台に生活した縄文時代(約8000~2300年前)の生活文化を復元して、現代生活の向上に資することを目的とした施設です。館内には、今までに発掘調査して出土した資料のうち、二千点余りの土器や石器を年代順に並べ、移り変りや用途を知ることができます。また、住居展示や食物・装身具・衣類なども併せて展示し、一見すればわかるように努めています。また、土器や土偶など文様解読で明らかになった当時の宗教観念や世界観・神話などを解説しています。
富士見町にくらし始めて32年になります。
移住した当初は考古学も縄文も全く興味がなく、それでも我が家の目の前にあったので館には訪れた記憶もあります。土器がたくさん並んでいましたが、感激するでもなく印象は薄いものです。
移住してから10年ほど経ったところで、町の議員となることとなりました。議員の立場上、目の前にある館に無関心でいるわけにもいかず、当時、毎年冬に3回ほど行われていた「井戸尻文化講座」を聴講に行きはじめました。義理と言うか、義務感から行ったというところです。
ところが、とにかく面白いのです。土器の文様の話をしているのですが、まるで質の良い推理小説を聞いているようでした。「次はどんな展開になるんだろう?」とドキドキしました。話している講師の皆さんの「井戸尻愛」がガンガン伝わってくるのです。熱のこもった話に引き込まれていきました。
館長たちとも気楽に話ができるようになった頃、「井戸尻は考古学会の異端児だ」という話を耳にしました。
異端児!? 「社会的な常識などを無視して奔放に生きる人」「ある分野で、正統から外れ、特異な存在とみられている人」のことですね。
議員としても常に圧倒的マイノリティーの立場に立つことが多かった私としては、とても魅力的な言葉として胸に響きました。一体どういうことなのか?
当時の館長に聞いたところ「そりゃー、テニスボールとバスケットボールくらいの違いがある」と訳の分からない説明をされました。
続けて井戸尻の講演会などを聞いているうちに、その違いがだんだん理解できるようになっていきました。素人の見解なので、間違っているかもしれませんがご容赦ください。
井戸尻考古館の成り立ち
一般的な考古学とは、事実に基づいた根拠のみから研究がされるようです。でも井戸尻では、発掘された土器などから縄文の人々の心に寄り添うことを一番大切にしています。彼らが、どんな世界観や宗教観で暮らしていたのか?もちろん、そこには研究の根拠となる資料などはあるのですが、一般的な考古学界では、そこまで踏み込むことは、暗黙の了解としてご法度となっているようです。
井戸尻主催の講演会に行くと、地元保存会の方々や民俗学の先生のお話があったりもします。事実のみから研究する考古学に対し、井戸尻のように縄文人がどんなことを考えてその土器を作ったのか?その文様にどんな意味を求めたのか?
学問がひろく人々のためにあるのなら、一般の人間にもわかりやすい井戸尻のとらえ方の方が私にはずっとしっくりと胸に落ちます。一方で、考古学会からは冷たい目で見られることがあるようです。
私が「考古学会の異端児」と好んで言うと、館長たちはあまり好ましく思わないようです。「いや、異端じゃなくって、ぼくたちが王道だから」
こんな小さな町の地味な考古館が、考古学会から認められるよりも、凛として自分たちの研究を貫いてきた、その姿勢にぞっこん惚れ込んでしまいました。
発掘50周年事業のポスターのサブタイトルは
「おらあとうのむらの歴史は おらあとうの手であきらかにする」 でした。
これって、どういうことでしょうか? またまた興味がわきました。
直接の発端となったのは、昭和28年に行われた諏訪考古学研究所(藤森栄一氏)による富士見町内(旧境村の新道遺跡)の発掘だったようです。
富士見町は昭和30年に4村合併して町となりましたが、その発掘に刺激された旧境村の人々が中心となり、境史学会を立ち上げます。この時のメンバーに、考古館の初代館長となる武藤雄六さんがいます。発会式に諏訪の藤森栄一氏を呼んで講演会をするのですが、その席で藤森さんは「ほら、そこの足元でも縄文人が掘り出してくれと待っている」と大演説をぶって地元の皆さんをあおったそうです。
「それじゃ、掘ってみるか」という事になり、昭和33年3月に現在の復元家屋の目の前を掘ることになりました。
みなさんをあおった藤森栄一さんは、いざ発掘と言う時には病気になってしまい、尖石縄文考古館の宮坂英弌先生の指導のもと発掘が始まりました。担い手は、地元の農家の境史学会のみなさんと、当時活発に活動していた諏訪清陵高校地歴部の皆さんだそうです。
それは東京の偉い学者さんが研究する為ではなく、地元の人々が村の歴史を明らかにするために掘った「自分たちの考古学」だったんですね。
昭和33年当時の発掘の様子
掘ってみると、たくさんの土器や住居の址が出てきて、「これは守っていかなければいけない」と、4月には井戸尻遺跡保存会を結成。7月には皆さんで復元家屋を建ててしまったそうです。そして、同年9月には土器を復元して、境支所を借りて「復元祭」で土器の展示会が行われます。それが井戸尻考古館の始まりです。
つまり井戸尻考古館は、地元の有志・保存会が支所の一室を借りて運営を始めたもので、運営管理が昭和40年に教育委員会へ移管されるまで続けられました。
土器の復元をする高校生たち
どうですか?この熱量! 当時の皆さんの勢いを感じますね。農家は春から秋までは忙しい。その後も、農作業の手があく冬の間、町内の史跡の発掘作業を進めていったそうです。
そんな歴史の中から生まれた井戸尻の研究は、凛と背中を伸ばした他のどこにもない唯一無二の魅力があると思っています。
元館長の小林公明さんの大好きな言葉があります。
よく縄文文化というけどそんなものはないんだ。長い縄文時代の中でその地域・時代に花開いた文化があるということ。だから地元の人間が研究しなくちゃいけない在野の文化なんだ
復元家屋の夜話で語る小林公明さん
この言葉を思い出すたびに胸が熱くなってしまいます。どれだけ井戸尻を愛しているのか・・・。
私がなぜこれほど井戸尻に惹かれてしまったのか、時々考えます。考古学に興味があるわけでもなく、知れば知るほど縄文時代は面白いけど、そこに惹かれるわけではないのです。井戸尻にぞっこんはまってしまった人々に、私は魅力を感じてはまってしまったようです。
井戸尻応援団
私は「人」に魅力を感じたのですが、人それぞれ持っているアンテナは違います。
そこで、井戸尻の魅力をなるべく多くの皆さんに伝えたくって、有志で「井戸尻応援団」を結成しました。
例えば、蓮の花がきれいに咲くようにレンコンの間引きや蓮田で勢力を伸ばしてしまったスイレンや雑草の駆除作業。かなりきつい過酷な作業ですが、みんなでやって楽しんじゃおう!と言うイベントにしちゃってます。
井戸尻応援団のレンコン掘り
その他、復元家屋で焚火を囲んでの縄文夜話や、土器作り・野焼きまで土器ができるまでの一連の工程。
本物の土器を破片をお借りして土器の拓本の体験。
史跡公園の傍らで雑草だと思っていたカラムシという植物からが、実は縄文時代にも布として存在していた驚きなどなど・・・
私たちが感じている驚きや楽しい時間を皆さんと共有できたらうれしいです。
何か、みなさんの心に引っかかるものはありませんか?興味があったら、一緒に仲間になってくださったらうれしいです。
井戸尻をキーワードに一緒に楽しもうという方、連絡をお待ちしてまーす❤
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童心にかえって泥だらけ!~井戸尻応援団、蓮田整備 2024~ (作業レポート・おらほー富士見)
江戸時代・縄文時代・現代
さてさて、話は変わります。
富士見町では、2月23日を語呂合わせで富士見の日と制定しています。昨年から井戸尻考古館でも、この日に合わせて週末の3日間「縄文ウイークエンド」と称して、学芸員による特別な解説を行っています。
今年もそれぞれ興味深かったのですが、最終日の小松館長の縄文の話は、お隣の民俗資料館が舞台でした。昔の農村の暮らしぶりが再現されたような展示の中で「道具」に焦点をあてた興味深い話でした。
館長ははじめ、みなさんに「江戸時代と言うのは今の僕たちの時代と、5000年前の縄文時代と、どちらに近いと思いますか?」と、問いかけました。
民族資料館で縄文の話
館長は鍬の柄の長さや曲がりの違いについて話し始めました。「道具は自分の手の延長にあるもので、自分が一番いい働きをするためには自分に合った形が大切」「昭和30年代までの人たちは自分にあうように道具を自分用にアレンジして使っていた。その後の人たちはホームセンターに道具を買いに行くようになった。」
資料館にある道具は地元の方から寄贈されたものです。鍬一つとっても柄の長さや曲がり方など、同じものはありません。
使い手の違う鍬
我が家は古民家を移築したもので、お隣の原村から持ってきました。ぼろ織用の織機も付いてきたのですが、ボロ端織機も、使う人の体に合わせて一つ一つ作ってあるので私には小さくって座るのも大変でした。そうやって、展示された道具を通して使っていた人たちに思いをはせると、みんなものすごく愛おしくなるようになってきますよね。館長は「それを隣の縄文の展示でもやってみてください。」と語りかけました。
また資料館には、江戸時代の後期から昭和まで住んでいた家屋がそのまま展示されています。囲炉裏が家の座敷の中にあり、そこには火も煙もにおいもありました。縁側と外を隔てているのは障子一枚。昼までにも家の中は薄暗かったですよね。家の中に暗がりがあり、火の神様や水の神様が住んでいた。精霊やもののけや妖怪もいたのかもしれない。
ここで最初の問いに戻ります。「江戸時代は現在と縄文時代、どちらに近いでしょうか?」
民族資料館で縄文の話
道具に対する考え方、家の住まい方、外との距離感。
自然の中に生きる人たちの気配が、江戸時代の家にはまだ残っていたのではないか? 縄文人の暮らしを、民俗資料館を通して見るともっと身近なものになる。というお話でした。
なるほど!? そういう視点で縄文を捉えたことはありませんでした。もともと日本は八百万の神様の国。私もこの富士見町と言う農村部で、いたるところに神様のいる暮らしを感じています。
縄文時代との距離感をぐっと縮めてくれた館長の話でした。自分のいるこの場所が、ずっと遥か昔からの営みと繋がっていて、またこの先も続いていること。そんな中で何を大切に生きて行ったらいいのか、自分を見つめなおす時間にもなりました。
いかがですか?井戸尻って素敵なところでしょう?
(Written by エンジェル千代子)