元気人

徳永青樹さん(グランドライン)

古い建物を触るとこの地域の豊かさが感じられる

2008年富士見へ
徳永青樹さん、2008年富士見へ

青樹さんを原村の古民家改築現場にお訪ねしたのは、この地域に初雪が降った日でした。古民家の南側の外壁から北側の外壁まで跨がった湾曲する梁や、一人では手を回せない太さの大黒柱を前に、たき火に当たりながらお話を伺いました。

青樹さんがまずおっしゃったのは、古い建物をさわっていると、昔のこの地域の風土や植生の豊かさが自ずと感じられてくるということでした。古民家の要所要所に使われているおそらく地元に生えていたいろいろな種類の木。一方、現在の建築で使われているのはどこか遠くから運ばれた集合材。戦後植林された山々から切り出される材は唐松松や赤松がそのほとんどを占めています。

この家の骨組みのこの場所にはこの材を使いたいというような家を創っていく上での必要な条件を整えるには、地域の山の植生が多様になる必要があります。山に雑木があり、落ち葉が腐葉土になって更に山を豊かにする。そういうことをわかっていてこの仕事に取り組んで行きたいと青樹さんはおっしゃいました。よい家を建てるということは地域の森林の豊かさに繋がっているのだと、お話のしょっぱなから視野を広げられた思いでした。

 

再び八ヶ岳へ

時には厳しい富士見町の自然に挽き付けられた 
富士見の顔と言っていい数々の建物を手掛ける徳永さん

青樹さんは2008年に富士見にいらっしゃいました。

幼少の頃より作る事が好きで、高校時代、実家を建て直す際、設計をしたのがきっかけで建築の学校へ進みました。大学時代、アーティスト・木村二郎の作品に出会い、「これだ。」と直感したのだそうです。二郎さんのもとで2年間働き、そこで同世代の仲間・迫田さんと知り合います。その後東京に一度出たのですが、クリエーターの死も契機になり、八ヶ岳へ戻ってきます。

最初は何もやることがなく、家の半分が猫屋敷のようだった移住当初の借家を自分で改築していました。2010年に一緒に働いていた迫田さんと二人でグランドラインを立ち上げます。グランドラインの活動をしていく中で、徐々に仕事の依頼が舞い込んできたのだそうです。

仕事を得た青樹さんと迫田さんは、お互いにこうしたいと思うことをぶつけ合い、次々に、それぞれの世界を、そして、二人が目指そうとする世界を広げていきます。全力投球し、お互いに相手を引っ張り上げていった二人。

そして2014年、青樹さんと迫田さんは独立して仕事をするようになります。最終的にでき上がったものの責任を誰が取るのかということを突き詰めて考えた末に出した結論だそうです。でも、相談したり、手を貸し合ったり、今までと違う目で意見を言い合ったり・・お二人は新しい関係をつくられているようでした。

 

いじっていく中で、おのずとなるようになる

牛小屋の記憶をそのまま残した工房
牛小屋の記憶をそのまま残した工房

「キャトルセゾン」「アジアート」「サンテリア」「おぐさんち」・・・青樹さんたちが創ってきた空間の一部ですが、それらのお店は今や富士見の顔と言ってもいい程。「アジアート」や「おぐさんち」で食事をしながら、また、「キャトルセゾン」でケーキを買いながら思うのは、その空間に居ることの心地よさです。

壁にも天井にも使われている古木は長い間使ってきたものだからこその色合いや角の取れ具合です。どっしりした柱や梁、天井の低さや部屋の広さ、それらの中にいることで、不思議に落ち着いた気分になります。

「どんな手順で、古い家が再生されていくのですか。」との質問に、青樹さんは「周りの風景、その家が建っている地形、その家のこれまでの歴史、使われている木、建物としての状態、そして、依頼主の意向、更に、こうなるといいのではないかという自分たち建築をやる者の思い、それらを摺り合わせていくと、自然と造っていく方向が見えてきます。」と答えてくださいました。

それらを摺り合わせることなしに、依頼主が今までにでき上がった空間を挙げて、“こんな形にして欲しい”と望むだけの場合は過去に引っ張られて今現在を創ることが難しくうまくいかないことも多いとか。

そして、実際の作業に取りかかった時、古い建物の建築の様子を具体的に見る中で、この木は新たにここに使おう、この材はここに置こうと自然に決まってきて、それに合わせて周りが立ち上がっていくのだそうです。

「いじっていく中で、自分の建築に対する感覚と、これまで培ってきた工法や木などに関する知覚が折り混ざって、おのずと方向性が決まってきます。」とおっしゃったのですが、その時付け加えられた「なるようになっていきます。」ということばが大変印象的でした。

 

空間は、でき上がってから社会的な意味合いをもつようになる

オリジナルでデザインのテーブルと椅子
オリジナルでデザインのテーブルと椅子

たき火の前でお話を伺った後、100m程離れたところにある「牛小屋」に案内していただきました。

入り口を入ると真ん中に通路があり、通路の正面には大きな換気扇。両側にはずっと先まで続くかつて牛がいた部屋。牛小屋の記憶をそのまま残した工房です。「展示場としても、作業場としても使っていきたい。大人の遊び場になるといい。」という場所なのだそうです。

かつて牛がいた所に、最近友人とコラボして東京の展覧会に出したという、オリジナルでデザインし製作したテーブルと椅子が置いてありました。
 布と鉄のパイプでできたその椅子は、床にたくさんの紅葉の枯れ葉が敷き詰められた中で、まるで空間に浮いているよう。裏面に薄紫や水色のプリントを施したガラスを5層に重ねたものと鉄の足で作られたテーブル。ガラス面に窓の外の屋根から下がったつららとそこから次々と滴る水滴が映って、幻想的な映像を見ているような感覚になりました。

青樹さんは「こういう小さいものを造るのは本当に楽しい。いつか、こういう小さいものからスタートして、それがそこにあるという状況からの空間作りも試みてみたい。」とおっしゃいました。

パンづくりの工房「サンテリア」
パンづくりの工房「サンテリア」


暮れも迫ったこれも雪の降る日。青樹さんと一緒に「サンテリア」を訪ねました。青樹さんが最も大切に思っている空間の一つだというパンづくりの工房です。見せてもらった後、別の場所でお話をお聞きするつもりでしたが、あまりの気持ちのよさに、工房の中でパン捏ね台にもたれて話を伺い、気づいたら2時間が過ぎていました。時々、「サンテリア」の主(あるじ)のキミちゃんも話に加わってくださいました。

どういういきさつで、この建物を創ることになったのか。最初に少しの言葉を投げ合いました。その中で最終的にキミちゃんから投げられたのは、「フランスパンのように固くてやわらかい空間が欲しい。」ということだけでした。キミちゃんは、理想のパンを追いかけ続け、青樹さんはパンのための空間に実際に作ることで、言葉ではない所でお互いが信頼し合い、納得し、パン小屋が育ってきています。工程について細かい打ち合わせはしなかったのに、でき上がっていく細部1つ1つがぴたっときたとキミちゃん。

ものを造り出す二人の魂のような物が共振して、あの工房ができ上がっていったのでしょう。「ここに不思議に人が集まってきます。自分もここにいるが本当に好きです。」「この人のためにここを創りたいと純粋に思って取り組んだ空間は、でき上がってから社会的な意味合いをもつようになっていくのだと感じるようになりました。」と二人の話は続きました。キミちゃんのこれからのパンづくりとコラボさせて青樹さんはこの工房をずっと創り続けていきたいと思っているそうです。

 ますます好きになっているという富士見。その富士見のそれぞれの場所に合わせて、そして、様々な方法で、いろいろな人と共に、これからどんなものが創られていくか、興味津々です。

経歴:
- 2008 富士見に転居
- 37年間 徳永青樹をやっている。これからもそうであり続ける。
Facebokページ:グランドライン

 

富士見町の文化と景色を、様々な切り口で紹介しています。